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skate columnSKATE COLUMN 2012/4/18  

中平健児(32)
高知県四万十市出身 スケート歴 17年
スポンサー:etnies. destructo truck. hi-fi wheels. open skateboarding. fatbros.
自然に囲まれた四万十市を拠点に、
世界スケートシーンに名を残せるよう更なる高みを目指し精進中。
1回目 2012/4/4 『スケボーとの付き合い』
2回目 2012/4/18 『撮影を経験して』
3回目 2012/5/16 『スケボー持力』
4回目 2012/6/6 『意識』

『撮影を経験して』


ご機嫌いかがでしょうか?
前回に引き続きまして中平健児です。
最近、高知四万十の日差しはもう暑いです…。

今回は自分の中で、とても大きな経験として残る初めての撮影について書かせて頂きます。
お付き合いお願いいたします。


二十歳の秋、東京都は世田谷区経堂に住んでいた和田 学君のアパートに、三ヶ月間居候した時の事です。
学君とは地元で出会って、そして自分を東京に誘ってくれた先輩です。
当時渋谷のストーミーに務めていて、最新スケートビデオやブランドを教えて頂き、
時にはアパートでパーティを開き、飯を作ってくれたり、
友達のスケーターを紹介してくれたりと本当に感謝しています。
とにかくパワフルな方で、酔っ払って職場の先輩なんかに関節技をきめてる姿が印象的でした。
そんな先輩のもと、はじめての東京での自分は、
時間換算だと東京から一番遠い所の田舎者、
土地勘もなく電車に乗った途端に、向かう方向が間違っているような不安に襲われたりしていました。

しかしながら、「スケボーをする」という目的だけははっきりしていたので、
聞いたり地図で調べたりしながら、プッシュでスケーターや滑れそうな公園を探し回ってました。
スケーターに飢えていたせいか、よく配達員の荷台の音に反応してました。
そんな中、世田谷区の砧公園に辿り着き、広い敷地内を徘徊しているとかすかに板を弾く音が。
テンションあがりながら辺りを見回すと、茂みに囲まれた駐車場にスケーターを発見。
ガチアガって茂みを掻き分けいきなり駆け寄り
「ハアハアっ、すみません高知から来ました。一緒に滑らせて下さ~い~」

学君のアパートから砧公園まではプッシュで片道30~40分位。
暇があれば通いました。
よく一緒に滑ってたのは、金井君、片桐さんをはじめ4.5人のスケーター達でした。
特に片桐さんは、いろんなスケボー情報や東京スポットを教えてもらったりと本当にケアして頂きました。
(のちに某公園のランプ管理をはじめ、世田谷スケートシーンに大変貢献されている方とお聞きしました)
ある日片桐さんが、「健児、ハンドレールとかはどう?」
咄嗟の質問に「出来ます!」と意気がったのを覚えてます。
実際は、4.5段の階段にフラットバーを置く程度しかやったことなかったんですが…。
詳しく伺うと、知り合いのカメラマンが雑誌のグラビアに使いたいハンドレールがあるとの事でした。
「健児のような無名のスケーターがいきなりハンドレールで載ってたら、きっと驚くよ」
その言葉に二十歳の土佐男子が黙ってスルーする訳がありません。

そして撮影当日、待ち合わせ場所にカメラバッグを持ったその方が奇しくも、
以前井関信雄氏のコラムで紹介されていた平野太呂さんでした。
太呂さんから紹介して頂いたそのスポットは、アプローチのなさと段差の多さに少し戸惑いましたが、
角度がある分レールは低く、かけてしまえばいけるだろう…まずはロクスラから…という印象でした。
そして、手際よくストロボ等を設置する太呂さんからOKが出た瞬間
「自分が今からやるんだ~」という緊張感が一気に高まり、
何処か第三者のような心持ちになり、
そんな状態の中、(よっしゃ!!行くぞ!行け!っしゃ!滑っ!?ドゥビ~ン!!!)
気づけば捲られてレールのボトムで尾てい骨を打ちバウンドしていました。
「ウぅゥ…イケると思ったのに…」
その後、二、三回トライしましたが完全に心が折れて断念しました。
帰り道に片桐さんと太呂さんと自分とで何か食べましたが、何を食べたか覚えていません。
椅子に座る時に痛かったけど、やせ我慢をして何もない風にしてたのは覚えています。
そして高知に帰ったある日、太呂さんから封筒が届きました。
儚く散った事を思い出し、無様な決定的瞬間が写っているのか~と思い少し暗い気持ちで封筒を開けたら、
手紙と写真が入ってました。
手紙には、(東京に来る時があれば、また撮影をしよう。)と書いてありました。
嬉しいのと期待に添えなかったという二つの気持ちでいっぱいになりました。
写真は自分の想像と違い、なんとか喰らいついて行こうとしているそんな印象の写真でした。
地元の先輩に見せると気に入ってくれて、イベントのフライヤーに使ってくれたりしました。
が、それ以来、人から人に渡り、現在その写真は手元にはありません。
変わりにこれをアップします。


写真提供 井関信雄氏


これは、いつかのインタースタイルで、
「あれ、どっかで見た事あるレール…ハッ?!」
自分が散ったレールでした。

ほぼ同じアングルで知らない外国人がフィーブルをきめてました。
(風の噂でエリック ボークだと思ってましたが、
このコラムを書く際に伺うとエド テンプルトンだと判明しました。)
実力の差をマジマジと見せつけられ本当に悔しくてページも捲らず眺めていました。
もし、自分がメイクしてたら…。

実は、今でもたまに冬場や長距離運転後なんかは尾てい骨が痛みます。
その度にこの一件を思い出します。
しかしこの痛みと悔しさは、自分の中で起爆剤のような存在になっています。
この撮影を通じて、たとえ結果が上手くいかなかったとしても、
必死に挑戦する事でまた新たな挑戦に繋がっていく。という事を学んだ一生ものの
とても大きな経験になったのでした。

(当時お世話になった、ゆう、学君、学君の同僚の皆さん、金井君、片桐さん、
砧公園で出会ったスケーター、平野太呂さん本当にありがとうございました。
井関君、写真ありがとうございました)


今回このコラムを書く事で、再度ヌルい自分に喝が入りました。
九月には第一子も産まれますし、日々精進いたします。

お付き合いありがとうございました。
また次回まで…

中平健児でした。

skate column中平健児
1回目 2012/4/4 『スケボーとの付き合い』
2回目 2012/4/18 『撮影を経験して』
3回目 2012/5/16 『スケボー持力』
4回目 2012/6/6 『意識』
 
 
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