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 COLUMN
skate columnSKATE COLUMN 2010/8/25  
ドラボン
宮城豪。あるきっかけから「ドラボン」と呼ばれその後定着。
沖縄県出身 33才 スケート歴20年位。
スポンサー:ROBOTproject COLORCODE HARD ZEISS
1回目 2010/7/21 『OVERGROUND BROADCASTING』
2回目 2010/8/4 『沖縄 days』
3回目 2010/8/25 『スケートビデオと大会』
4回目 2010/8/31 『出会い、そして広がっていく』

『スケートビデオと大会』

自分のものの考え方、スケートボード観に強い影響を与えてくれた年上のスケーター達。
初めのうちは自分とは次元の違う憧れの存在でしかなかったのですが、
そのうち彼らの創っていたスケートビデオに少しづつ参加させてもらえるようになった。
それがきっかけでスケートビデオで自分を表現できる可能性を知る事ができたのです!
この映像を見た事があるでしょうか?
ちょっと前にスケートボード界とその周辺を少しだけ騒がせた「C-BOYZ」

このメンバーの中に居るATOLLEROさん、
自分に影響を与えてくれた年上のスケーター達のチームSIで
みんなをまとめ、スケートビデオを創っていたのはこの人アトさんなんです。
この人達はむかしから謎の短編映画を創ったりしていた謎の人達でした。
C-BOYZで驚いたあなた、この人達の作品で更なる衝撃映像を見る事ができます。
http://www.arp-pro.com/index2.html 
C-BOYZもそうでしたが、音楽も全てメンバーによるオリジナルで、
これがまた心に染み入る良い音楽なんですよ。
スケートビデオに参加させてもらった事がきっかけになり、
それから更にスケートボードワールドは広がっていきました。
地元で行われていたコンテストにも参加するようになったのです。
この頃のコンテストは今思えばかなり自由過ぎでしたね~。
まあコンテストとは言ってもほんとに小さいものなんですが、
それでもそれにかけていてメチャクチャ真剣な人もいるし、
ほんとにふざけてるのか?という人もいる感じでかなりカオス状態でした。
自分は技らしい技はほとんど出来なかったのですが、
とにかく場を盛り上げたいという思いから、
コース内にセクションとして置いてあったパイロンを頭から被ってフルプッシュしたりしていました(笑)。
でも自分にとっては真剣だったんですよ。
自分の性格から普段人とあまり喋る事が出来ず、心の交流がほとんどなかったのですが、
言葉のいらないスケートでは人に喜んでもらいたい、
心にヒットしてもらいたいという思いがあったんですね。
そんな具合なので、やはり優勝した事もなかったのですが、
そのうち全国大会がある事を知って無謀にも出てみたいと思うようになりました。
もともと広島の人だったアトさんが地元に戻っていった後、
SIをまとめる人がいなくなり、ビデオを撮る人もいなくなり、みんなバラバラになってしまいました。
それからはどんどんスケーターが減っていきました。
いつもSIのメンバーやいろんなスケーターが集まっていた沖縄で
一番盛り上がっていたであろう小さいLOVEパークみたいな公園は、
最盛期には常20人位のスケーターがそこにいたのですが、誰一人いなくなってしまいました。
その状況を見て上京を決意しました。
熱くなる一方のスケートに対する思いをぶつける場所が必要だったのです。
上京してすぐにAJSA(全日本スケートボード協会)の大会があるという情報を聞きつけて、
池袋サンシャインの屋上で開催されていたAJSAに初参加する事になりました。 
やはり沖縄の大会の時と同じように自分なりに場を盛り上げたいという思いから
「ドラボンTシャツ」を着ての参加でした。
初の全国大会、上京したばかりでまだ知り合いも全くいない、
もともと人前に出ると緊張してしまうたちだったので、
もう足がガクガクで、コース内をプッシュで周るだけで精いっぱいという感じだったのですが、
そんな自分に周りのスケーター達は、声援を送ってくれたのでした! 
自分の事を知っている人は誰もいなかったんですよ!
それなのにドラボンTと必死具合を見ただけで自分の思いを感じ取ってくれたのだと思います。 
温かかったですね~。
それからはAJSAがあればできるだけ参加するようになりました。
当時スケートメディアはほとんど無く、数少ない露出はほぼ東京の有名なスケーターだったので
地方のスケーターが自分をアピールできる最大の場がAJSAでした。
なので全国各地から猛者共が一堂に集まってきた訳です!
その頃自分は優勝したいとか、結果を残したいという思いよりは、
同じ場所に色んなタイプのスケーターが集まってきて
その熱さを共有できる刺激を与えあえる感じが他になく貴重な場だったのです。
大会の順位よりも自分にとってはそこが重要でした。
以前にこちらのスケートコラムでもオリジナリティー全開だったチョッパー君。
現在はCOLORCODEで一緒に動いていますが、
彼との出会いもAJSAでした。
当時から既にチョッパー君は既成概念と戦っていました。
服装やスケートスタイルは自分とは違っていましたが、同じ匂いを感じていました。
ただ、チョッパー君はかなり先を行っていた気がします。
約5年間、いろんな地方で行われていたAJSAに参加し続けて、
やっと自分には大会での表現は向いていないことに気がつきました。
しかし無駄ではなかった。色んな思い出もできました。
このAJSAの経験と、自分ならこうしたいという思いから、自分で小さな大会を主催し始めました。
実はつい最近も横浜某所で大会を開催しました。
大会自体は非常にユル~いものだったのですが、
本当にいろんなタイプのスケーターが集まってきてくれて
みんなで同じ場所で滑って、良い時間が流れていました。
懐かしいあの感じを久しぶりに味わえた気がしました。
参加者の皆さん、ありがとうございました。
来年の夏、またやるかもしれませんので、その時はまたよろしくです!


skate columnドラボン
1回目 2010/7/21 『OVERGROUND BROADCASTING』
2回目 2010/8/4 『沖縄 days』
3回目 2010/8/25 『スケートビデオと大会』
4回目 2010/8/31 『出会い、そして広がっていく』
 
 
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