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 COLUMN

skate columnSNOW COLUMN 2013/9/2

 

田畑将彦
1973年生まれ
長野市在住
カナダ、アメリカ、日本各地を放浪中に自身のベースとなるアートを築き上げる。
スケートボードやスノーボードのグラフィックに興味を持ち始めたのがアーティストとしてのルーツ。
green clothing,sobut brand,november snowboard,flux,deeluxe等のデザインにも参加。
自身のアートブランドthe other oneを立ち上げ、ほそぼそと活躍中。
1回目 2013/8/28 『北志賀ハイツという所』
2回目 2013/9/2 『北志賀ハイツという所 其の弐』
3回目 2013/9/18 『北志賀ハイツという所 其の参』
4回目 2013/10/2 『アートなのだ。』

『北志賀ハイツという所 其の弐』

前回のコラムいかがでしたでしょうか?
バブル期全盛期の長野の山奥での出来事です。
1990年初頭。
集客を見込んだスキー場側は、何処で教わったのか、独自にハーフパイプを作ってしまいました。
長さ100m以下、高さ2m程。当時にしてみれば十分ビッグパイプでしょう。まっすぐな。
ポッカジャパンオープンやイーグルカップなんかが開催されていました。
一応まっすぐなパイプでしたが、参加者で整備していたし道具もなく、
実際は全部の壁は開いているし、アールも適当ながたがたパイプ。
ですが、飛べる人は飛べるんですね~。
転んでも、多数決で格好良い人が優勝!
これが当時のジャッジシステムです。
形の良いパイプの噂も流れ、お客さんも増えスキー場は繁盛していました。
そのころ、地元のリフトじいさんたちやペンションの親父達と酒を酌み交わし、
ばあさんたちとお茶して自分たちの居場所を確立していきます。
独特の方言にもなれ、うまく合いの手がいれられるようになった頃、
何を認められたのかパトロールに任命されます。
お客さんが多くなったと同時に、けが人も増えたからです。
大勢のお客さんの為に、ちいさなジャンプ台を作るのも僕たちの仕事でした。
しかし、そのあまりの多さに目を離すとすぐに着地がえぐれて、
逆フラットが出来てしまい怪我人が続出したのでした。
経験を通して怪我した時の状況が、
スキーヤーとは違う視点で判断出来るという事は大切な事だったのでしょう。
前向きに滑るのと、横に滑るというこの違いは確かに大きな違いです。
スノーボードパトロールとして、すこしは役に立ったのではないでしょうか。
毎日の最終パトロール時に、ローカルの子達が楽しみに待っていて、
狭いゲレンデを一緒に付き合って滑ってくれた事がとても印象的です。
そして次の年、レストハウスが新設されレンタルもそちらに栄転します。
怒濤のレンタル&スクール時代の始まりです。
1日に50~100ちかいレンタルを扱い、毎日30~50人のスクールです。
パトロールの仕事を後輩に押し付け、毎日スクールです。
サイズの合わない子供から、
スキーヤー、ヤンキー、バカップル、じいさん、ばあさんまで、教えまくりました。
マニュアル等ありません。
どうしたら曲がれるのか、楽しいのか、
スクールのメンバーと一生懸命考えた大切な時代でもありました。
毎日のスクールでのつらい動作の繰り返しが、
今の僕のターン技術に繋がっていると分かったのは、最近です。。。
超多忙なシーズンでした。何百人教えたのでしょうか。
この時僕は21歳で、校長と呼ばれるようになっていました。
忙しすぎたので、
裏で糸を引いて楽しようと思っていると
今度は、ゲレンデ整備の仕事を押し付けられます。
あまりにも、けが人が多いという事で整備チームを設立ということでした。
これがハイツディガーの始まりでした。
ハイツはどう見てもフラットなファミリーゲレンデでした。
ピンポイントな場所に、バランスの良いとびやすいアイテムを作るのに苦労しました。
整備におかげでけが人は減少していきましたが、アイテムがどんどん大きく激しい物になっていきました。
ハイツには、全国からうまい人が集まっていましたし、当時の海外ビデオの影響も大きく
そのニーズに応えるとアイテムを巨大化していったのです。
もちろん自分たちもうまくなりたかったワケですから。
スノーボードが世界的にブームになり、
スケートボードからの影響から、レールやボックスの文化が始まります。
世界規模のハーフパイプが必要になっていきました。
このころ日本でもかなり珍しかったでしょう。自主開催で初のストリートの大会を開きます。
赤白レールやお手製のボックスなんかを考え抜いて配置し、ローカルの大会を作り上げました。
大勢参加してくれたこのローカルの大会は大興奮の中、
最初の選手がレールで骨折し、それをみていた全員の心も折れ大会は早々終了しました。
今振り返るとその配置では狭すぎて何も出来ないでしょう。
いい思い出です。
そして、とうとう世界規模のパイプが新設されることになりました。
スノーボード協会なる物が設立され、大会規定に合わないと大会が出来なくなってきたのでした。
そんな事はどうでも良かった僕は、
ただただ大きなパイプを滑りたいという事で土盛りの段階より参加しました。
水抜きがどうたらこうたら、角度がどうした等聞き流し
とにかく早く作って欲しい気持ちで一杯でした。
クローラーに乗っかり、何度も土を運んだ記憶があります。
そして、長さ100m、高さ4mのパイプが出来上がっていきます。
この頃、各地にビックパイプが設置され盛んに大会が開催されました。
シーズンを通して行われるプロ戦は見応えがあり興奮しました。
そんな大会のパイプを整備するのが僕たちの大切な仕事でした。
ユンボと手作業でコツコツっていました。
選手にとても綺麗な仕上がりとほめられると本当に嬉しかったです。
大会当日は決まって大雪で朝からパイプを掘り起こすのが常だった気がします。
ほぼ毎日二つのパイプを整備していました。
(その後ミニパイプも出来て三つになります。)
各地から集まったディガーは多い時で12名。
そこそこ広い大部屋に2段ベッドが六個、昔よく耳にした”たこ部屋”という生活でした。
マッチョな男どもが集まるととんでもない生活が始まります。
そんな馬鹿どもをしっかりとまとめていたのが、岩佐聖でした。
この人が居なければ、ハイツのパイプ、パーク文化は維持されなかったと思います。
とにかく、良く掘って、良く滑りました。
こんなに自由にらせてもらって、ほんとに感謝です。
次回、その後の事をもう少し書いてみようと思います。
ヨロシクお願いします。
つづく

snow column田畑将彦
1回目 2013/8/28 『北志賀ハイツという所』
2回目 2013/9/2 『北志賀ハイツという所 其の弐』
3回目 2013/9/18 『北志賀ハイツという所 其の参』
4回目 2013/10/2 『アートなのだ。』
 
 
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