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 COLUMN

skate columnSNOW COLUMN 2013/9/18

 

田畑将彦
1973年生まれ
長野市在住
カナダ、アメリカ、日本各地を放浪中に自身のベースとなるアートを築き上げる。
スケートボードやスノーボードのグラフィックに興味を持ち始めたのがアーティストとしてのルーツ。
green clothing,sobut brand,november snowboard,flux,deeluxe等のデザインにも参加。
自身のアートブランドthe other oneを立ち上げ、ほそぼそと活躍中。
1回目 2013/8/28 『北志賀ハイツという所』
2回目 2013/9/2 『北志賀ハイツという所 其の弐』
3回目 2013/9/18 『北志賀ハイツという所 其の参』
4回目 2013/10/2 『アートなのだ。』

『北志賀ハイツという所 其の参』

1990年半ば、いわゆるバブル期、スノーボード文化も絶頂期にさしかかった頃
各地で大会が開かれ、それとともに外国人選手も数多く長野に訪れました。
ビデオの中のスターにこんな田舎のちいさなスキー場で会えたのは本当に興奮しました。
かのラマースノーボードの創始者、バート・ラマーが
ゲレンデに向かってフルスイングでゴルフしていたり、
売り出し中の憧れの初期RIDEチーム、
デイル・リバーグ、ジェイク・ブラットナー、ネイト・コール、ラッセル・ウィンフィールドが
僕たちの作ったBOXやレールで技を決めていたり、
今では世界屈指のビックマウンテンスノーボーダー、FURTHERで知られるジェルミージョーンズも
その頃はスラロームレーサーとして大会に来ていたのを覚えています。
初来日したジェミー・リーン、マット・カミンズ、スーシー・ウォレス、
さらにはジミー・スコット、デイブ・シオーネ、マイク・ランケット等
ドリームチームが参加した戸隠スキー場の大会等にも手伝いに行きました。
この時はほんとに感動しました。
神林スキー場で行われたワールドカップの前走で、
緊張のあまり思っていたよりぶっ飛んでボトム落ちし、
大笑いされたにがい思い出もこの頃です。
たしかライオが活躍していた頃かな~。
いろいろありましたが僕たちは毎日毎日、パイプを掘っていました。
気温が低すぎて雪が柔らかく、
固まらない時はモービルで水のはいったポリバケツを何回も往復して運び
雪を湿らせ、リップをつくったり
特性の柄の長いスコップを作りサンダーで先を鋭く削ったり、とにかく工夫して作業にあたりました。
自分たちの仕事に誇りを持っていましたし、評判も良かったと思います。
そんなとき、パイプドラゴンがとなりの高井富士スキー場をはじめ各地のに導入されたと思います。
かたい雪に弱く、柔らかいとすぐ削れてしまう欠点もありました。
それになんといっても高額でした。
しかしパイプドラゴンのあるスキー場に人が流れるようになりました。
僕たちはそれに対抗すべきパイプをクローズさせない為に
大小三カ所のパイプを時間をずらせてオープン出来るように頑張りました。
手間のかかる仕事でしたが、苦にはなりませんでした。
そんな感じで何シーズンかを過ごします。。
そろそろ世間も一人に一枚スノーボードが行き渡り飽和状態に陥り、
とうぜん人気が落ちる時期が来ます。
この頃の渋谷の街頭インタビューで、
一番人気のないスポーツにスノーボードが輝いた時がありました。
それにスノーボードは他の横乗り(サーフィン、スケートボード)にくらべてお金がかかります。
チケットや昼飯、移動のお金。
黒人のスノーボーダーがいないのはそんな理由ではないでしょうか。
そんなちょっとマンネリ化した時期、
ローカルの子達も年下が多くなってきたころ、ある人の一声で北海道に旅する事にしました。
『もっと大きな所で滑った方がいい』
green clothingの田口勝朗の一言でニセコに行く事に決めました。
旅先ではニップスの玉井太郎さん、カメラマンの樋貝さん、ローカルの永田学ちゃんなど
ニセコローカルにお世話になります。
圧倒的な滑る距離の違い、スピード感の違い、パウダースノー、雪崩に対する知識と責任、
そしてバックカントリーという世界に出会ってしまいました。
いままでの飛んだり跳ねたりの世界に
パウダースノーの自然地形を楽しむという新感覚の遊びを覚えてしまったのでした。
人工物で遊んでいた僕にとって自然の地形で遊ぶという世界に感動し、
のめり込んで行きました。
そして、ハイツを出る事にしました。
ハイツのタイメックスが入り運営も変わった時期ではないでしょうか。
何年か北海道にかよい、北志賀に行くのも少なくなっていきました。
しばらくして、営業を休止するといううわさを聞いた時は非常に残念でした。
その後、妙高エリアに活動の場を移します。
そんな中、ふとハイツを見に行こうという事になりスノーシュウを持って出かけてみました。
リフト乗り場も朽ち果て、リフトも撤去されたゲレンデには
新しい樹木が育ち、草がゲレンデを覆いかくそうとしていました。
パイプの跡もほぼありません。
その昔山を削り、リフトを架け大勢の人が集まったこの娯楽施設は自然に戻ろうとしていました。
もちろん沢山の思い出のある土地なので、寂しい気持ちも大きいのですが、
それと同時に自然に戻りつくパワーにも感動しました。
ハイツで過ごした貴重な思い出は人それぞれあると思います。
今でも会話の中にハイツの思い出話がよくにでてくると、本当に嬉しく思います。
幸せなひと時でした。
そんな訳で、僕はまだまだしつこく滑りたいと思います。
巨大なパークが多い中、膝に優しいミディアムサイズのパークを今後のディガーさんたちに希望しつつ、
北志賀ハイツの思い出話を終わりたいと思います。
当時、お世話になった地元の方達には本当に感謝しています。
ありがとうございました。

snow column田畑将彦
1回目 2013/8/28 『北志賀ハイツという所』
2回目 2013/9/2 『北志賀ハイツという所 其の弐』
3回目 2013/9/18 『北志賀ハイツという所 其の参』
4回目 2013/10/2 『アートなのだ。』
 
 
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