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 COLUMN
surf columnSURF COLUMN 2014/8/20  

稲田 邦匡
1964年千葉市生まれ 南房総市在住 千葉大学医学部および同大学院卒業
日本プロサーフィン連盟(JPSA)オフィシャル・サポート・ドクター
日本整形外科学会認定整形外科医
日本体育協会公認スポーツ・ドクター
南洲会 勝浦整形外科クリニック副院長
国際スポーツ医科学研究所(ISMI)監査
競技スポーツとしてのサーフィンの発展のために尽力しています。
1回目 2014/8/20 『サーフィン・ドクターとしての「私とサーフィン」』
2回目 2014/8/27 『競技スポーツとしてのサーフィンの発展性について』
3回目 2014/9/2 『サーフィンの競技特性とスポーツ傷害
「どうしたらパフォーマンスがアップするのか?」』
4回目 2014/9/17 『サーフィンと・・・』

『サーフィン・ドクターとしての「私とサーフィン」』

この「INTERSTYLE magazine」のサーフコラムは、これまでプロ・サーファーをはじめとしたサーフィン業界の方々が書いてこられたようですが、全くの異業種である医師の私が書かせていただくのは、大変光栄な事だと思っております。
私を含めてサーフィンを愛する医師は大勢いますし、医療関係者だけのサーフィン大会などというものもあるくらいですが、(自分でいうのも何ですが)私ほど競技スポーツとしてのサーフィンに関わっている医者はいないのではないでしょうか。では、なぜ私がこうして唯一の「サーフィン・ドクター」でいるのかという理由について、これまでの私とサーフィンとの関わりを述べたいと思います。


私は、現在「勝浦整形外科クリニック」で整形外科の臨床医として働く一方で、2008年から競技スポーツとしてのサーフィンの医科学研究を開始し、2009年から日本プロサーフィン連盟(JPSA)のオフィシャル・サポート・ドクターとして、連盟の公式戦に帯同してきました。こうした活動は日本では類を見ないもので、医学の業界紙やNHKなどでも紹介されました。





そんな私は、東京オリンピックの開催された1964年に千葉県千葉市で生まれ、千葉大学医学部を卒業して現在に至るまで、ずっと千葉県で暮らしてきました。サーフィンは、かつて千葉パルコにあった「MineeMo」というサーフ・ショップのクラブに所属して20歳から始め、大学時代は片貝~御宿~部原あたりで波乗りしていました。当時の私にとってのアイコンは、トム・カレン、トム・キャロル、糟谷修自、久我孝男らでした。大学4年の頃から、外房まで波乗りに行く時間が無くなり、千葉港や検見川浜で出来るウインド・サーフィンに転向し、千葉では有名な「Rabbit Island」というショップに通っていました。ちなみに、当時ウインド・サーフィンは、ロビー・ナッシュというカリスマが、近代のウインド・サーフィンの全てを構築していった時代で、大変な盛り上がりをみせていました。
大学卒業後は、千葉大学医学部整形外科学教室に入局し、色々な病院に勤務したあと、2000年に南房総の館山市にあった(旧)安房医師会病院に転勤となり、それをきっかけに南房総に移住しました。館山は、それまでにもウインド・サーフィンのために頻繁に来ていた場所でした。移住当初は千倉に住んでいたので、千倉でサーフィンを再開しました。また、映画「グラン・ブルー」のモデルとなったジャック・マイヨールさんと出会い、館山でスクーバ・ダイビングのライセンスを取得し、坂田や西川名で潜りました。また、漁業権をもつ友人の医師と共に素潜りで海の幸を採ったり、館山の「KNOTS」の蛭田さんにウェイク・ボードを習ったり、さらに2008年に(旧)サーフテック・ジャパンの森さんと知り合ってSUPを始めたりと、「海生活」を満喫してきました。

ところで、私は中学では軟式テニス部を中退。高校では天文部と自転車同好会に所属と、あまりスポーツ活動はしてきませんでした。大学時代はアルペン・スキー部に所属していましたが、結局スキーは上達しませんでした。ところが、サーフィンを始めてからというもの、ウインド・サーフィン、スノー・ボード、スクーバ・ダイビング、SUPと得意なスポーツが次々と増えていきました。結局、私は「横乗り」族だったんですね。


さて、JPSAのサポートを始めたきっかけは、千倉在住のプロ・サーファー吉川祐二君と知り合ったことです。彼とカノア・ダーリンが開催したハワイでのサーフ・キャンプに参加して、ボンガ・パーキンスらハワイのプロ・サーファーと知りあい、さらに細川哲夫プロやケコア・ウエムラプロらJPSAのプロ・サーファー、ライフ・セーバーの飯沼誠司君、サーフィン界では有名な柔整&鍼灸師である高橋達也先生とも知り合い、サーフィン業界でのネットワークがどんどん広がりました。2008年には(旧)サーフテック・ジャパンの森さんと、当時まだ発展前だったSUPに関する共同研究を行いました。そんな中、JPSAの大会がプロ・スポーツのツアー戦とは言え、ライフ・ガードや救護室などの安全管理が整備されていないことを知り、千倉に時々いらっしゃっていた当時JPSA理事長の腰添健さんと協議の末、2009年から大会のメディカル・サポートをさせていただくようになりました。





それと同時に、我が医療法人とのグループ会社であるアスレチック・トレーナーの会社(株)国際スポーツ医科学研究所(ISMI)と共に「サーフィン医科学プロジェクト」を立ち上げ、大会への帯同のほか、プロ・サーファーらを対象とした「サーフィン専門外来」を開設し、また、サーフィンに関する医科学研究を本格的に開始しました。その結果、これまで勝浦整形外科クリニックを受診したプロ・サーファーは46名(うちグランド・チャンピオン経験者は11名)を超え、毎日プロ・サーファーの誰かが来院している現状です。医学の学会での研究発表も、これまで11回ほど行いました。







また、2010年にはサーフィン先進国であるオーストラリアへ視察に行きました。国営のサーフィン管理運営組織である「サーフィン・オーストラリア(SA)」の、選手養成施設「ハイ・パフォーマンス・センター(HPC)」と、各地のサーフ・スクールのシステムを体験・視察しました。この視察では本当に多くのことを経験でき、今後のニッポンの競技サーフィンの在り方を考える上でのゴールデン・スタンダードとして、大変役に立っております。同時に、HPCとの連携体制が構築できたことは、貴重な財産だと思います。



そして、今後はJPSAのみならず、さらにはISAの日本代表チームやASP WQS・WCT、そしてオリンピックに参戦する選手のサポート活動を視野に、構想を練っているところです。




ところで、我々のこうした活動は一般の医師と医療機関にとってはなかなか出来ないと思います。何故なら、オリンピック種目以外のスポーツ活動に、医療機関がこれほど金と時間を費やすことは、医療経済的に不可能に近いからです。また、競技者が多く活動しているという地理的な条件や、医療機関とサーフィン関係者とのネットワークなど、実現には多くの壁があります。これこそが、これまで「競技スポーツとしてのサーフィン」を、他の多くの競技スポーツと同様に、スポーツ医科学的に研究し発展させるという活動が行われてこなかった理由でしょう。わが医療法人では、理事長の寛大なるご理解とこれらの条件が全て揃ったことで、実現出来たわけです。

おしまいに、今月私はとうとう50歳になりました。そんな今年は、NHK総合テレビのサーフィンに関するニュースに出演したり、我が家の大きなリュウゼツランが3本同時に開花したり、館山「花火とフラメンコ」でのステージ出演が実現したり、義理の姉が結婚したりと次々に素晴らしいことが起きています。また、テレビやネットで見る限り、今の世の中は私と同世代の「50歳」が動かしていることを実感します。ということは、今年こそ「ニッポンのサーフィンの発展」のために、本当に「何か」をしなければならないと思います。
つづく



surf column稲田 邦匡
1回目 2014/8/20 『サーフィン・ドクターとしての「私とサーフィン」』
2回目 2014/8/27 『競技スポーツとしてのサーフィンの発展性について』
3回目 2014/9/2 『サーフィンの競技特性とスポーツ傷害「どうしたらパフォーマンスがアップするのか?」』
4回目 2014/9/17 『サーフィンと・・・』
 
 
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