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コラム

松本浩『第2回 北志賀ハイツスキー場とソワカ』

2019/07/17 tag: 松本浩

皆さんこんにちは。今回もお付き合いよろしくお願いします。

2回目の今回は前回少し話に出した "北志賀ハイツスキー場" の事とそこにあったスノーボードスクールとレンタルの寮 "ソワカ" について書いてみようと思います。
僕の横乗りライフのルーツであり、日本のスノーボードの歴史の中でもかなり爪痕を残した場所では無いかと思います。僕以外にもこの場所に思い入れがあるスノーボーダーは多いのでは無いでしょうか?
残念ながらその当時の写真は見つからなかったのですが、今回はハイツ、ソワカの思い出とその頃の話を書きたいと思います。

Matsumoto Hiroshi photo

北志賀ハイツスキー場は1980年代の終りに志賀高原の麓エリアに出来た新しいスキー場で周りにあるスキー場と比べても小さな所でした。
その当時はスノーボードという遊びがまだ一般に認知される前でこの新しい遊びを受け入れるスキー場は少なく、多くのスキー場は滑らせてもらえない状況だったそうです。そこでこの新しい遊びができる場所を造ろうとオープンしたのが北志賀ハイツでした。別に特別なアイテムが沢山あった訳でも素晴らしいコースがあった訳でも無かったのですが、オープン当初から濃ゆいメンバーが揃っていて自分達が遊べるものや遊び方の可能性を試しながら滑っていました。
例えばビールケースを並べて今で言うボックス遊びしてみたり、大きめのバケツ置いただけのオーリー当て込みアイテムをやってみたり、道路を除雪した雪捨て場の山をシェイプして道路アプローチのクウォーターで遊んでみたり、電柱に当て込んだりとそれまで見たことも考えたこともない遊び方をしていました。その時は只々衝撃を受けただけでしたが、無いものは作り、在るものは利用して遊べばいいという事を学ばせてもらいました。今思えばあれがストリートスタイルのはしりだったのかなぁと思います。

Matsumoto Hiroshi photo
(オープン当初にはこんな看板ありませんでした笑)

そんな濃ゆい人達が住んでいた寮 "ソワカ" は長野市にあったショップで僕自身も在籍していた "イーグル" から来ていた人達(当時はまだアルペンの選手が多かったかな?)と東京の老舗ショップの "ストーミー" から来ていた人達(本物のフリースタイラー達)がレッスンをしたりレンタル番をしながら篭っていました。
この時にソワカに住んでいた人達の数人は今でも現役で、毎年雪山で会う事があり、未だに刺激を与えて貰っています。例えば25周年を迎えたブランド "GREEN CLOTHING" 代表の田口勝郎氏や同ブランドのデザイナーで自身でも "THE OTHER ONE" のプロデューサーでイーグルのチームメイトでもあった 田畑"MASA" 将彦氏、90年代にあったブランドで、先シーズンから工場を日本に変えて復活した "YUKINEMAKI CLOTHING" をプロデュースしている "CREDIT RACING" 代表の三澤勝男氏、新潟県の老舗ショップのメローズからは地形造成イベントの先駆者で最近パパになった "SLOPE PLANNING" 代表の丸山"バブルス"隼人氏、他にも当時殆どの大会でタイトルを総ナメしていた中村加奈子さんや天神平で行われているビンテージボードイベント"ROOTS GROOVE" 主催の佐藤圭氏。
他にも濃ゆい人達はいましたが、こんなメンバーが初期のハイツローカルでその時代も第一線で活躍していて今でも雪山で会う事が出来る人達でもあります。僕以外にも今日までに影響を受けた人は少なからずいるのでは無いでしょうか。
当時の僕にとっては初めて見るドレッドやモヒカン、赤や緑の髪色、刺青にネルシャツ、ダメージジーンズなんてスタイルの人達、初めはカッコいいよりも怖い人達という印象でしたが、実際は優しい人達で、遊んでもらっているうちにカッコいいが勝って憧れる様になっていきました。(むこうにしてみれば僕は寮(ソワカ)のオーナーのくそ生意気な息子、仕方無しにかまってくれていただけかもしれませんが笑)
とにかく小学生だった僕にはあまりにも刺激的過ぎる人達のお陰ですっかり横乗りに感化されてしまい今でもドップリ頭まで浸かっている訳です。

Matsumoto Hiroshi photo

日本国内では何処よりも早くスノーボーダーを認めスノーボードの為のアイテムを作っていったハイツですが、その要因の一つとなっていたのが当時あったJPST(Japan Pro Snowboard Tour)という協会の存在が関係していました。
後援にスポーツ平和党(燃える闘魂の方の党)が付いていたこの協会の盛り上がりは子供ながらに凄いと感じていました。賞金総額3000万円、優勝の副賞には車という正にバブル期と言ったところでしょうか。
このバブル全盛期に存在していた協会のベースとなっていたのがハイツで、そのお陰もあり大きな大会をよくやっていました。というのもまだ常設のハーフパイプが国内に無かった時に土盛りで作ったものが有り(ハイツともう一箇所が同時期くらいかな?)、それを使ってハーフパイプ選手権だったり(公式大会としては国内初かも)ジャパンオープンだったり外国の有名なライダー(当時のビデオスターとか)が参加する大会なんかも行われていて、小さなハイツにビックリするぐらいの人が集まる様になっていきました。
僕自身は年齢的にプロ資格が取れなかったのでアマチュアとして大会に参加していましたが、父親がこの協会の関係者だったので、コース造りやバナー張りなどの大会設営に借り出される事もあり、今現在携わっている地形造成のイベントや大会の裏方作業はこの頃に体験した事が生きているのかなと思います。

Matsumoto Hiroshi photo
(今は自然に返ってしまいましたがこの上部に最初のハーフパイプがありました)

公式大会や大きな大会の他にも毎週土曜日の夜にスクール主催のナイターレースもやっていて、ステップアップしたい人や大きな大会の前に練習したいプロたちで結構盛り上がっていました。(僕にとってもその後のレース人生にかなり役立ちました)
他にも毎年シーズン終わりに3つのプレジャン(ステップダウンみたいなアイテム)があるコースを3人同時にレースするトリプルサバイバルレースという大会など、小さなスキー場を盛り上げる為に色々とやっていました。そういった集客努力の積み重ねの甲斐も有り、ハイツは段々と有名なスノーボードスポットになっていきました。

僕がハイツで過ごしていたのはオープンから1994年頃迄で、アメリカに行ってからは殆ど行く事がなくなってしまいました。その頃にハーフパイプが増設されたり篭り組がめちゃくちゃ増えたりレストハウスが新しくなったりと更に盛り上がっていたみたいですが、北志賀ハイツスキー場から名前をスノーボードワールドハイツに改めた日本のスノーボードのルーツとも言えるこの場所は、残念ながら2004年に営業を辞めてしまいました。ですが、この場所から始まった事は既に全国に広がっていて、これから先も残っていくのだろうと思います。

Matsumoto Hiroshi photo
(第1リフト跡地、リフトの支柱も撤去され改札跡があるのみ)

今回はこんなところで。
次回はアメリカ時代にふれたスノーボードの事と燃えまくっていたレースの事なんかを書きたいと思います。今回もお付き合いありがとうございました。

 

松本 浩プロフィール
1979年7月11日生まれ
yukiita circus 団員 / 地形研究会員
スポンサー:CREDIT racing / YUKINEMAKI clothing / PRANAPUNKS SNOWBOARDING
/ MAKEYUKIITA / KRD / HATOS BAR / and many friends

 

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